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2006年01月28日(土)

商人の町、近江八幡

かつて、江戸と京都を結ぶ「東海道」「中山道」が交わる地域として、発達した町です。
明治維新まで湖東地域は、商業的にも軍事的にも要な場所であったため、歴史的に見ましても中々面白いですよね。
戦国時代、京都にとって大動脈であった「安土」「桃山(伏見)」を、信長と秀吉に抑えられた時点で勝負は着いたって感じです。

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日牟礼八幡宮(ひむれはちまんぐう)。近江の守護としてしたしまれています。
神社の裏には八幡山と言う山が有り、豊臣秀次が築いた八幡城跡があります。

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▲江戸情緒が残る商いの町並み。関東で言ったら、規模の大きい川越って感じでしょうか。
有名な八幡堀等の風景を見るためには、駅から結構歩く必要があるので、暖かい季節ならばレンタサイクルがオススメかも?ちなみに、駅前は結構近代的に栄えています。

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▲朝鮮人街道。徳川家康が上洛の吉道として用いた街道。後に幕府が朝鮮通信使を通したことからその名がついたそうな。
建て前では、都は京都であったため、形式的に江戸へ行くには京都を経由しなければならなかったんですな。

大きい写真が見たい方は【コチラ】

Filed under: 旅行関連| MASANAO @ 13:38

2 Comments »

  1. 近江八幡出身でただ一人だけ、高校日本史教科書および広辞苑に名前と業績が記述されている人物の住居跡・勉学所跡を訪れておられないのですね。江戸時代前半で唯一、徳川幕府に対決した思想家で陽明学者・岡山藩元家老の熊沢蕃山ですが。著書「大学或問」で幕府政治を批判したため、古河藩(茨城県)に幽閉され病死するところまで教科書によっては記載されています。また、徳川幕府からは由井正雪の乱(慶安の変)の首謀者と目されていたようです。明治天皇からは明治維新の思想的功労者として正四位の官位が与えられています。因みに中江藤樹は何の官位も贈られていません。荻生徂徠には「日本一」の学者と称賛され、佐久間象山からは「老師」と云われ、さらに勝海舟からは「儒服を着た英雄」と称えられていました。そして高杉晋作には誰よりも尊敬されていました。中江藤樹から教授された陽明学を自分で究めた場所が近江八幡市中小森町にあります。名君と呼ばれた岡山藩藩主の池田光政の元に戻るまでの6〜7年間をその場所で父母や弟・妹5人の計8人で生活をして、
    勉学と剣術に励みました。その場所は熊沢蕃山の祖父母やご先祖の出身地でもあります。

    コメント by 守中 幸一 — 2006/04/25 @ 10:42

  2. 「我は我、人は人にてよく候」ってやつですね?
    近江は見どころが多いので、とても一度じゃ回れませんよね…。

    コメント by まさなを☆管理人 — 2006/04/26 @ 23:05

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