もともと古い物が好きであった訳ではない。
京都へ修学旅行へ行ったときなどは、
ずっと新京極で遊んでいたし、
遠足で鎌倉現地集合の時などは、
ずっと東京駅地下のゲーセンで遊んでいた…
ある意味で、人並み以下だったのかもしれない。
こんな私も人生経験を色々積んで、
そろそろ“おっさん”と呼ばれるんではないかと
ヒヤヒヤする歳になりじわじわと
詫びとか寂びなどが気になり始めてきた。
何百年、何千年も後世に残るってのには
それなりの理由が有ることも解り始めてきた。
最近のJ-POPの賞味期限が週単位な訳も解ってきた。
千年以上も鎮座する建物を見たり、
数千年も世を眺めてきた巨木と対峙したり、
京都の町の薄皮をちょっとひっぺがえして覗いてみたり、
そんな時、なんとも言えぬゾクゾク感を感じる。
足下に埋まった古の都を思ったり、
誰も居ない朽ちた日本家屋を眺めたり、
嵐山の集落で無情という言葉の意味を考えたり、
そんな時、なんとも言えぬ侘びしさを感じる。
ひょんな切っ掛けで、般若心経の解説本を読んだ。
仏教の心髄を300文字足らずで表そうとしてるんだから
そうそう容易く理解は出来ないだろう。
そもそも仏教と言うのはその教えよりも、
我々受け手が、どの様に解釈するのかが重要であるらしい。
その解釈次第では某団体のように胡散臭くもなるのだろう。
ひとつの哲学書として気軽に読んでみるのが丁度良いのかなと思う。
見方によっては、妙に科学的であり、物理的でもある。
現在・過去・未来
千年も前の事なんて、有る意味で未来の様なモンだし
千年も後の事だって、有る意味で過去の沿線上でしかないし
まぁ、「俺の通った跡が道となる!」って勢いで
今年の夏を乗り切りたいです…w